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秩父事件をどうとらえるか、どのように教えるか
〜秋のフィールドワーク


2010年10月23日実施

 好天に恵まれた10月23日、秩父でフィールドワークを行いました。小鹿野町在住で秩父事件研究顕彰協議会の篠田健一さんのご案内で下吉田を中心に事件の経過を追いました。
 まず、椋神社近くの窪田鷹男巡査慰霊碑。1884年10月31日に金貸しの永保社を襲った新井周三郎率いる一隊が翌11月1日に下吉田で寄居から派遣された警官隊と衝突します。100人以上の農民に対して警官は20名少々。警官隊は農民に追い返され、脚気を患っていた窪田巡査は農民に斬り殺されました。しかし、1944年につくられたこの慰霊碑には「凶徒の弾丸に倒れる」とあります。農民ふぜいに斬り殺されたいうことでは、という警察の意地でしょうか。
 その後、農民たちは借金の証文のある戸長役場に向かいます。その途中の清泉寺前で戦闘が再開されてこのときは農民2名が死亡します。秩父事件殉難之碑は清泉寺前の道からちょっと入ったところにありました。私は秩父事件は椋神社に集合してから全てが始まったと思っていましたのでいきなりの衝撃でした。
 そして、その夜椋神社に3000名ともいわれる農民たちが集結してついに決起となります。椋神社の境内には祈念碑と像、そして吉田町(現秩父市)の教委が立てたかなり詳しい説明の地図が置かれています。ここで事件が埼玉のみならず群馬・長野ともつながった大規模な蜂起を計画していたことや軍の情報撹乱によって農民たちが秩父から寄居方面におびきだされて計画が破綻していく流れの説明を受けました。
 
椋神社にて。ここに3000人が集結しました。
 
事件は長野・群馬ともつながっていました。
  その後はかつて井上伝蔵の屋敷があった場所と近くにある伝蔵の墓、昼食後は映画『草の乱』の撮影のために再現された井上伝蔵邸を見学しました。下吉田村戸長役場の筆生(いまでいう助役)も勤めていた井上伝蔵の一族は江戸時代から続く「丸井商店」を営んでいました。その屋敷が蜂起にむけての会合の場になりました。事件では会計長を勤めた伝蔵は事件後2年間下吉田の斎藤家にかくまわれて北海道に逃亡します。しかし、逃亡といっても俳句の会に参加するなどかなりの行動をしています。結婚もして子どもももうけますが、死の直前に家族に自分の正体を告白します。連絡を受けて埼玉からやってきた落合寅市らは井上の遺体との対面を果たし、遺骨は北海道と秩父に分骨されました。
 その落合寅市の墓は細い道を入った山の近くにあります。かなり立派な墓で碑文は親交のあった貴族院議員が書いています。寅市は事件後高知まで逃亡し、板垣退助にも面会してます。その後の大阪事件に関係して逮捕され重懲役の刑を受けます。多くの獄死者を出した過酷な懲役を生き抜いた寅市は事件関係者の家族を訪ねてまわり、「暴徒」とされた人々の真の姿を伝える活動を続けました。
 さらに入った道沿いにあるのが副総理になった加藤織平の墓です。墓の周りがかけているのは子どもが「暴徒の墓」に石を投げたためです。墓には「志士」と刻まれており、警察などから「削れ」という圧力があったそうですが、削られることなく現在も残っています。織平は富農で金貸しも営んでおりましたが、取りたてなどはせず多くの人々の人望を集めていました。織平を総理にという意見もありましたが、彼は「もっとよい人物がいる」として大宮郡の田代栄助を総理に推すのです。
 

加藤織平の墓です。
 
 石間交流館は廃校になった小学校を利用したもので事件を題材にした根岸君夫画伯の連作や借金の証文、自由党員の名簿などの事件関係の資料を展示しています。
 高岸善吉の墓と生家をめぐって一日目最後の見学地は音楽寺です。まさに秩父市街を見下ろす高台にあり、「自由民権の鐘」を合図に小鹿阪峠を大宮郡に向かって進撃したのでした。市街を見下ろしながら農民たちは何を思ったのか。農民たちを「見つめていた」武甲山の荒れ果てた哀れな姿も印象に残っています。

音楽寺から見下ろした秩父市街です。

  見学の後は元朝日新聞の記者で、山形支局時代に元憲兵の土屋芳雄さんへの取材をまとめた『ある憲兵』を書かれた奥山郁郎さんのお話をうかがいました。貧しい農家に生まれた土屋さんが貧困から脱する方法の1つとして軍で憲兵となり、多くの中国人を拷問や暴行で殺害してきたことを戦後に自ら書き留めたものです。自らの罪を告白し、謝罪も試みた土屋さんといまだに加害責任を認めない元軍人たちの違いはどこにあったのか、など当時の取材から売り上げの低下という商業主義が加害責任の報道を躊躇させるという現在の新聞社の姿勢についてまで話は広がりました。奥山さんは2006年に朝日新聞の山形版に捕虜殺害を拒否してリンチや差別を受けながらも殺人を拒否した渡部良三さんのことを書かれました。渡部さんは朝日新聞も戦争や天皇制に対してあいまいな態度であることを理由に奥山さんとの面会を拒否。取材は電話で行ったそうです。とてもよい話でした。
 その後は市内で懇親会を行い、秩父の地酒に舌鼓を打ちました。

 翌日は篠田さんにさらにお世話になり、希望者で秩父市内をまわりました。「革命本部」が置かれた旧郡役所は地方庁舎になり、警察署は現在はNTT、事件の記録『秩父暴動事件概略』を残した「升屋商店」は「矢尾百貨店」になり当時の様子を伝えるものはほとんど残っていません。農民たちは郡役所の中を一切荒らさなかったと事件後の郡長の報告にはあります(高利貸とつるんでいた警察署や裁判所は破壊されました)。
 事件で「総理」となり刑死した田代栄助の墓は金仙寺にあります。かなり立派な墓で加藤織平の墓のように石を投げられた跡もありません。元は市街に所にあったそうですが、戦時中に軍関係の建物を造るときに現在の場所に移されたそうです。そのときは鎖で縛られた墓を運んだそうです。
 その金仙寺の近くに「仮本陣」が置かれた地蔵院跡があります。その一角に事件に参加した柴岡熊吉の墓があります。借金によって「身代限り(財産没収)」にされた熊吉は事件に参加し、皆野本陣解体後は熱海まで逃亡しましたが逮捕され、事件から一年あまりたって浦和の監獄で獄死します。草相撲の強者であった熊吉を死に追いやった拷問はさぞや酷いものであったことでしょう。

田代栄助の墓です。
 
 一方、高利貸もその後の歴史は続きます。高利貸「刀屋」の広大な屋敷跡は駐車場になっています。その近くに現在も質屋「刀屋」は健在です。子孫(?)の方が店先を掃除している姿には複雑な気分がしました。

今も残る「刀屋」。この一帯が屋敷でした。
 
 お囃子が賑やかに演奏されていた秩父神社には田代家が奉納した石灯籠が現在も残っています。奉納されたのは文政元年(1804年)で栄助の祖父と父の名が刻まれています。神社のすぐ近く、現在は観光案内所になっているところに大宮郡戸長役場がありました。戸長役場には借金の書類が保管されていますのでこちらも襲撃の対象とされました。
 最後にちちぶ銘仙館を見学しました。今でも継承されている織物「秩父銘仙」の実物を見るためです。縦糸の段階から絵柄をつけるのでちょっと変わった仕上がりになっています。事件の後、不況から脱した秩父では織物産業が戦後まで続きました。

 秩父事件の跡を実際にたどるのは初めてでしたが、事件の詳細を知るにつれ「秩父事件をどうとらえるか、どのように教えるか」ということが簡単ではないことに気づきました。もっと「革命」の要素が強いものと考えていた自分にとっては「革命本部を中心に自治政府をたてる」という性格はあまり強くなかったことは衝撃でした。かといって決して「借金返済」を要求する「強訴」「愁訴」というのみではなく「東京の内務省をめざす」という目的もありました。事件の指導層にもかなりの意見の相違があったようです。
 しかし、何よりも事件に関わった人々が「生きた」地をめぐることで事件を「ひとくくり」で捉えるのではなく一人一人の生き様を丁寧に追いかけることが必要であると感じました。「暴徒」と呼ばれ、事件を語ろうとしない時代からの調査研究は想像以上の困難であったと思います。そのような調査を行われ、今回は二日間に渡って丁寧に解説いただいた篠田健一さんに改めて感謝したいと思います。
 
 
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