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変わってきた、そして変わり続ける”上野”
〜春のフィールドワーク


2011年5月29日実施

 大雨の中、鶯谷駅に集合。植竹紀行さんの案内で寛永寺へ。と言ってもこの地はまさに植竹さんの”ホームグラウンド”。私が「子どもの頃、上野には傷痍軍人がいて子ども心に怖かった」と言えば「オレが子どもの頃は浮浪児が怖かった」というくらい戦後間もない頃からの上野を知り尽くしている植竹さんなので「観光コース」にはならない。
人通りのあまりない寛永寺の「裏手」には大量の灯籠の土台があった。かつては多くの灯籠が列をなしていたが、ある時期になくなったという。売却したのではないかということ。そして灯籠と言えば今回の東日本大震災では東京も震度5強の揺れがあった。「頭が重い」灯籠はかなりの数が転倒しており、寛永寺もあちこちの石造建造物の周辺に「ロープやテープが貼られて「立ち入り禁止」になっていた。
  寛永寺から東京芸術大に向かう途中には「7階建てマンション建築反対」の横断幕が。植竹さんの自宅はこの近くということだが、閑静な住宅地に高層マンションの建設が行われている。「小泉改革」による規制緩和で景観を台無しにするこのような計画が上野でも複数進行しているとのことである。
  芸術を志す学生あこがれの東京芸大にはかつての東京図書館の書庫などの建物が残っている。かつては樋口一葉もここで勉強しており、近くの道を通って友人宅に向かっていたことなどを当時の地図も使って説明していただいた。
  マンガ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』でもとりあげられた京成線「博物館動物園前駅」をながめつつ谷中方面へ。大名藤堂高虎が朝鮮で「請来」(という名の掠奪)してきた仏像がある西光寺で台東区議の茂木さんと合流。谷中でも問題になっているマンションの問題についてもお話をうかがった。全林庵では1911に始まる辛亥革命の「前段階」の革命運動に参加して処刑された山田良政の墓を見学し、参加者の鈴木義治さんに解説をいただいた。孫文も彼を高く評価し、碑文は孫文によるものである。
 寺は左半分が寺、右半分が神社という珍しい建物でまるで「定食のセットメニュー」のような感じ。廃仏毀釈の影響だそうだ。そして、その奥には小さな地蔵がまつられている。1945年3月4日に谷中はB29の空襲を受けて約500人が死傷した。そのときにこの寺にあった防空壕を爆弾が直撃して亡くなった14人を弔うものだそうだ。その説明をしてくれた茂木さんからは谷中を単に「観光地」とするだけでなくこの地域の「戦争」の問題にも関心をもってほしいとの意図で作成されたガイドマップもいただいた。
  断続的に続く雨が激しくなってきた。いつもなら多くの人でにぎわう谷中の商店街もこの日は人も少ない。谷中霊園も地震で200以上の墓石が被害を受けているというのでFWはここで終了。御徒町のコリアンタウンにいき、「もう50年以上もやってる」という焼き肉屋で食事をして解散となった。
 現在は「東京の中心」といえば新宿や池袋なのだろうが、上野が「庶民の街」としてにぎわっていることは今も変わらない。大名屋敷から寺町へ、そして闇市から商店街へと移り変わってきた上野や谷中は新たな「開発」の問題を考える時期になっている。
      
 
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